まだ陽が高い頃に、ソレシカは唐突に言い出した。
「甘えられるっていいよな」
「タトエにですか」
「もちろん大歓迎だけど、その気があるなら俺はクレズニに甘えられても嬉しいな。いつもサレトナとかのお兄ちゃんをやっていると、自分が甘える立場になりたくなったりしないか?」
ならない、と正直に返そうとしたのだが、クレズニは答えを返す前に立ち止まった。唇につくかつかないかくらいの距離に指を置いて続く内容を考えていく。
クレズニは甘えることが下手で、苦手で、甘えるという行為自体も自分がすることは好んでいない。それでも、指摘されると即答しない程度には甘えたい相手がいるらしい。
相手が誰なのかはもうはっきりとしている。陽に透けるエメラルドブルーが瞼の裏できらめいたからだ。
だから、尋ねた。
「ソレシカのいう甘えられる、ってどういう行動ですか?」
「脱いだ服の温もりを求められるとか。ベッドの上で服に頬をすりよせていたら大変愛おしい」
「……私は何も聞いていませんよ」
言い終えて席を立つ。言い出した本人は首をかしげているところから察するに、フェチシズムな発言をした自覚はあまりないようだ。だったら、さらに掘り下げる勇気はなかった。
クレズニは沈黙の楽器亭の三階に位置している自分の部屋に戻る。
前に、レクィエの部屋の扉を叩いてしまったのは甘えだろう。先ほど自分は望まなかったというのに、いまは甘えに手をかけてしまっている。
彼になら迷惑をかけても喜んでくれると思ったのは、まさに砂糖の考えだ。それなのに引き返すこともできない。
もう一度だけ扉を叩く。返事がないのは出かけているからだろう。
古びてはいるが手入れのされているドアノブを見ながら、逡巡するが、引いてしまった。
「レクィエ?」
中をのぞくが主人はいない。代わりにあるのは椅子にかけられた、いつも羽織っている水色のパーカーだけだ。
こくんと、唾液を音を立てて飲み込む。
想像の中にいる自分のはしたなさだけで、頭が沸騰しそうだった。このまま扉を閉めてわずかの罪悪を抱えて帰れば良い。
分かっているが、足は踏み出されて、手は伸びていく。
クレズニはレクィエのパーカーを持つと鼻に近づけた。くん、と届くのは傷みと香水の匂いだ。混ざり合って不思議と趣がある。その匂いに覚えはあった。いつのことだろうかと、もう一度、匂いを探って記憶の泉へ沈んでいく。
視界が真っ暗にな。
「俺があんたを抱いたあとの匂いだよ」
全身の血液が顔に集まったのではないかと思った。
クレズニが叫ぶ前にレクィエは手による目隠しを外すと、半回転を決めてから混乱の最中にいる恋人の手を取って、口付けた。パーカーが床に落ちる。
唇を何度も往復されたことにより少しの油断を誘われ、舌を差し入れられる。ぴちゃぴちゃと口内を遊ばれて、軽く舌先を噛まれた頃にはクレズニはすっかり茹だっていた。床に座りこんでしまう。
「なーにかわいいことしてくれてんだよ」
にやにやと、これ以上はないくらいに楽しいことを見つけた猫の顔で笑われたのが腹立たしい。
「違います! これはアレトリス理論による誤解です!」
「なんだよそれ」
「あ、アレトリス理論とは水色による神経愛撫の効果を狙っていて、それが食べものかそうでないかの判断を……!」
必死の詭弁をまくしたてるクレズニだが、聞いている側のレクィエは頭を押さえる。そのまましゃがみ込んだ。視線が同じくらいになる。
「クレズニ」
「はい」
「あんたの口から愛撫って出るとすごいえろいな」
思わず掌底をかましてしまった。これではサレトナと同程度の反応だと思うが、レクィエは避けてくれたので安堵する。
いまだへたり込んでいるクレズニを楽しそうに眺めるのは、変わらないまま、レクィエは顔を寄せると耳元で囁いてくる。その毒の甘さといったら、比較できるものがなかった。
「珍しくあんたから甘えてくれたんだな。すごく嬉しい。でも、そんな抜け殻じゃなくて俺本人に甘えてくれよ」
続いた言葉に、もう何も言えない。
クレズニは床に落ちたパーカーをつかんで顔を隠してしまった。
それをまたレクィエは喉で笑う。髪を梳かれながら、クレズニは苦く思った。
甘えるのはやっぱり苦手だ。いまにも溶けてしまいそうなほど、恥ずかしくて、痺れてしまう。そうして、いままで保っていたはずの自分がいなくなってしまうから。
何よりもそれを悪くないと思ってしまうのが、悔しかった。
アレトリス理論

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