彼の愛は優しく怖い

 無音の楽団、定休日。
 とは言うが実際は決まった休みなのではなく、依頼が一つも入ってこないという珍しい日であるだけなのだが。
 その日、カクヤは一人で二階にある宿の自室にいた。寝台の上で腕を枕にしながら足を広げて寝転がっている。見上げる天井は木張りだ。染みが一つも無いあたりに宿の主のこだわりがうかがえた。
 他の仲間たちはそれぞれ天気の良いあいだに出かけてしまった。タトエはレクィエに引っ張られて買い物に行き、ソレシカとクレズニは各々の雑用を済ませるという。いまは窓を叩く音が聞こえていた。雨が降ってきたのだろう。
 パーティの紅一点であるサレトナは、今日の用事をただの外出としか言わなかった。
 寝返りを一つ打って、横になりながら考える。
 晩ご飯は何だろう。
 呑気なものだった。
 その思考の通りカクヤは普通だ。普通の定義を誰にでも分かるように説明するとなると難しいが、例を挙げれば強敵との戦いに昂揚はしても興奮はしない。勝利や金銭より仲間の命を、特にサレトナの無事を第一に行動する。
 模範的なリーダーであり、強さに興味はあれど人知を逸した力には手を伸ばそうとすらしない。
 冒険者という職業に憧れを持った点を含めてもカクヤは普通の人間だ。特別な技能を持たず、平凡とすらいえる。そして本人もその評価に対して不服を抱いたり、マイナスだと額面通りには受け取らない。
 笑って「そうだよな」と返すだけだ。
「ただいま」
 薄い扉越しに声が聞こえた。宿の構造のためか、カクヤの部屋が階段に近いためか一階の声もよく届く。がばりと上半身で起き上がると部屋の外に出た。階段を下りる。
 流れる橙色の髪にはもつれがないことを見られ、カクヤは安心した。その理由は本人にも分かっていない。
 笑顔で出迎えるだけだ。
「おかえり。サレトナ」
「あら。他のみんなはまだなの?」
 カクヤは首を縦に振った。沈黙の楽器亭にはカクヤとサレトナしかいまはいない。
 サレトナは傘を持って出ていたのか肩など濡れていなかった。それでも夏とはいえ多少は冷えたらしく、食堂へと移動する。カクヤもその後ろをついていった。
 珍しく誰もいない食堂を二人占めしながら、カクヤは勝手知ったる厨房で甘い紅茶を淹れるための準備をする。茶葉と砂糖とティーポットを揃えて、コンロの上に水を入れたケトルを置けばしゅんしゅんとお湯が沸き立つ音が聞こえだした。黙ってその音を聞いていると気の抜けた溜息が耳に届く。帰宅したばかりの少女は疲れているようだから砂糖は多めに入れておいた。
 砂糖のない紅茶と砂糖をたっぷりと入れた二人分の紅茶をトレイに乗せて運びながら、カクヤは食堂へ戻る。
「はいよ」
「ありがと」
 カクヤはサレトナと向かい合わせに座った。カップに薄い唇をつけて、こくんと一口だけサレトナが紅茶を飲む。甘さが染みたのか、湿った溜息が洩れた。細められた瞳にはいつだって目が奪われる。
「今日はどこへ行ってたんだ?」
「賢者の塔へ情報収集と本を返しに。あとは少し調べ物」
「何もなかったか?」
 それは、口にしたカクヤも気付いていない。心配の問いかけでありながら、束縛にすら至らない拘束の言葉だった。
 サレトナが勝手にどこにもいかないように。どこへ行ったのかの行動を把握できるように。逐一つきまとうといった暗い執心は存在しないが、無事を祈って知りたがる。
 サレトナも同じく過剰な心配には気付いていない。
「なにもなかったわよ」
 だから、この後は別のことを話していた。
 新たに受ける依頼の相談であったり、買い物をしていて街による物価の相場について、または見かけた猫のかわいらしさと犬の健気さについて。
 仕事と日常を織り交ぜながら、飽きることなく二人は話を続ける。
 窓を叩いていた雨は打ち付ける、といってもいいほどの勢いになっていく。途中で、がんだんだん、と一際大きく雨の音がした。
 会話が途切れる。
「ねえ」
「ん?」
「カクヤは、どうして私の話を聞くの?」
 サレトナの質問にカクヤは考え込んだ。いままで考えたこともなかったことを聞かれたので、理由を探す。
「どうして、か。どうしてだろう。癖かな」
 曖昧な返事をしながらも、浮かぶのは前に一度だけあった出来事だ。
 無音の楽団の仲間が揃ってそれなりの月日が経ったある日。サレトナは一人で声もなく泣きながら遅く帰ってきた日があった。ソレシカも、レクィエも知らない。タトエも、もしかしたらサレトナの兄であるクレズニだって知らないかもしれない。
 ただサレトナは孤独を背負いながら宿に、必死になってたどり着いた。雨には濡れず、顔を涙で濡らしていた。出くわしたカクヤが事情を聞いても、一言も喋らずに振り払って部屋に戻った。残されたカクヤは、呆然としながらも悔しかった。
 それだけの話。
 翌日のサレトナは昨日の涙なんて嘘ですよ、と態度が告げていた。いつものように生意気で、上品なまま挨拶をした。それが、昨日のことは誰にも言うなということを意味していたいのだからカクヤも誰にも話していない。
 ただ、カクヤはもうそんなことが一度だって起きてはいけないと思った。
 サレトナが傷ついてはいけないから。だから、カクヤはサレトナがどこを歩いているのかが知りたい。
 それを伝わるように説明するのは難しかった。なにせ、どうして傷ついてはいけないのかがまだはっきりとしていない。
 黙ってカクヤはサレトナを見つめた。
 長い橙色の髪に、杏色の瞳。凜々しい眉にいまは油断している口元。どれもがカクヤの、異性の好みにはあてはまらない。
 だが、カクヤにとってサレトナは特別だ。
 傷ついて欲しくない。隣で、笑って、自分も笑顔でいたい。ありふれた穏やかな時間を過ごしていたい。
 そのためにも。
「サレトナをしまえたらいいのにな」
 大切な自分の腕の中に。そうしたら、傷つかないで、心配しないですむのに。
 自然と口から出た願いにサレトナは酸っぱい飴を口にしたかのように眉をひそめる。
「私は物じゃないわよ」
「ああ。知ってる」
 生きている。だから、サレトナには自由でいてもらいたいというのも事実だった。たとえ大空を飛ぶことはできないとしても、心は囚われない。そんな存在であってほしい。
 おかしなことを言ってしまったといまさらながら、恥ずかしくなる。カクヤはティーカップを口に運んだ。熱い。少し、舌を火傷する。
 その不意を突くようにサレトナは言った。
「カクヤ。それに、しまわれたら。私はあなたの隣にいられなくなっちゃうじゃない」
 腕が止まる。サレトナをまた、見つめる。言った本人はいつものとおり強気な表情で、首をかしげていた。
 確かにそうだ。
 サレトナを大切な場所にしまっておきたいけれど、そうしてしまったらサレトナと一緒に歩けない。
 それはとてもさみしいことだ。
「そうだな。サレトナ、ずっと俺の隣にいてくれよ」
「ばあか」
 カクヤは笑った。
 ああ、それでも、サレトナを隣にしまえたらいいのに。
 少しだけ思いながら、笑った。

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