かしゃりと、いままでが崩れる音がした。
それは夢の中での出来事だったと、サレトナは目を覚ます。暗闇の中で寝台に横たわっていたようだ。
隣の大部屋から男の気配と言い争う声がして、止めるために咄嗟に起き上がろうとするが、途中で力は抜けた。左腕を見たら包帯が巻かれている。傷は塞がっているが体が怯えて力がうまく入らないようだった。
扉の隙間から差し込む光だけを頼りにして部屋を見渡すと、住処にしている沈黙の楽器亭の一室、サレトナの部屋だった。誰かの部屋と間違えないために飾った、青いリボンが巻かれた熊のぬいぐるみがあることが証明だ。
いまから記憶を失うまでに何が起きたのかを思い返す。
サレトナは宿を通してではなく個人的な依頼をある貴族から受けた。そのときに手が空いていたのはカクヤとタトエだけだったので、三人で深度はない地下遺跡へ潜ったのだが。
死にかけた。
情報になかった、青と赤と黄色の三色に彩られたおぞましい怪物がいた。それだけは覚えている。
他の、カクヤとタトエは無事だろうか。
「カクヤ!」
ソレシカの声だ。怒りの響きが強い言葉にサレトナの体が震える。足音を立てないように裸足でフローリングを踏みながら、隙間から大部屋の様子を覗き見た。まだサレトナが起きたことに気付いていないのか、そんなことはいまの問題ではないのか、ソレシカはカクヤを壁に追い詰めて赤をぎらつかせながら睨んでいた。カクヤはその視線を見返してはいるが、普段ほどの力が無かった。
やめて。
サレトナは自分の血の気が引いていくのを感じる。
見たくない、大切な仲間たちが憎みあうところなど、怒りをぶつけあうなどしてほしくない。それでも耳を塞いで目を閉ざして逃げることはできなかった。
ソレシカが叫ぶ。
「どうしてタトエを優先させたんだ、お前が助けるべきはサレトナだろ!? おまえのことを好きな女を第一に庇え!」
一度引いた血の気が沸騰しそうになる。
ソレシカは何を言っているのか。サレトナがカクヤを好きであることは周知だろうが、カクヤからサレトナを好きな素振りなど、誤解の欠片くらいしか見せてくれたことがない。それにカクヤは、無音の楽団の仲間であったら好き嫌いで守るべき優劣など決めない。そういう人だ。
生かすべき人を生かして、守るべき相手を守る人だ。
今回の冒険でも、サレトナが気絶してもタトエと乗り切らなくてはならない状況に陥ったために、タトエと手を取った。
それは想像するだけで落ち込みそうなことではあったが、カクヤが責められているのもいやだ。ソレシカを止めるために大部屋へ出ようとしたが、第三者が止める。
「やめてやれよ」
レクィエだった。カクヤにソレシカ、レクィエという珍しい組み合わせがこの部屋にいるということは、タトエはクレズニに手当をされているか事情を説明しているのか。出ていくのは止めて様子をうかがうことにした。
ソレシカが言っていた「好きな女」が気になる。無音の楽団に女性はサレトナしかいないのだから指している相手は明白なのだが、もしかしたらを考えると下手を踏めない。顔を合わせるのも気まずくなってしまう。
サレトナは続きを待つ。
距離が生まれたあとにぽつりと落ちた言葉が沈黙の泉に波紋を広げていった。
「悪かった。俺が、悪いことをした」
聞きたい。何が悪いことなのか。それはサレトナを助けなかったことなのか、それとも。
サレトナを生かしていることにようやく罪悪感が生まれたのか。
「俺はサレトナを守ると決めたのに。約束したのに。全滅することと、あいつを秤にかけた。それは、俺の過ちだ」
「違うわよ!」
サレトナが大きな声を上げて部屋に入ると、三人が驚いた。状況と流れの説明はされなくてもよく、したくもなかったので、カクヤに詰め寄ると強引に話を進めていく。
「カクヤは私が助かると分かっていたからまず敵を倒して、それから宿に戻って治療することにしたんでしょう? それでいいの」
本当ならサレトナは誰にも振り向かれなくて、手を差し伸べられなくて当然の存在だ。それほどの罪を宿して生きている。
でも、一緒に旅をしているみんなは。カクヤには。
生きていて欲しい。
精一杯の願いが微笑みになるが、反対に厳しい表情のままカクヤは言う。
「サレトナ。二度と言うな」
不意を打たれた。
視界の端でレクィエに助けを求めるが、ソレシカと一緒に出ていったようで大部屋にはいま二人きりだった。
距離を詰められる。扉に背が当たる。腕が伸びてカクヤという檻に閉じ込められる。
「俺はリーダーで、全員を生きて帰らせることが役目だ。だけど、そのためにお前が一時でも犠牲になるのは耐えられない」
視界が暗くなる。明かりが乏しくなったのかと判断しかけたが、首筋に伝わる温もりがそれは錯覚だと伝えてくる。
サレトナにカクヤが覆い被さっていた。抱きしめられている。心は不思議と落ちついていて、ただ顔が見えないのが悔しかった。
「俺が、何を手放すとしても守りたいのがサレトナなんだよ」
知っている。
傲慢だけれど、いつだって自分を優先してくれるからそれに甘えていた。
嬉しかった。兄でもなく父でもなく、母でも叔母でも義弟でもないのに自分を愛してくれる存在がいてくれることが、救いだった。
サレトナはいま抱きしめてくれているカクヤの熱を味わいながら、言う。
「うん。嬉しい。いつだってカクヤが守ってくれるから、私は戦えるもの」
カクヤが守ってくれるから、生きていける。
抱きしめてくる腕の力が強くなる。
「サレトナ。俺にお前を守らせてくれ」
「うん。私にも、あなたを守らせて」
「好きだ」
うん。
また、いままでが壊れた音がした。
それでもかまわないのは、カクヤと生きるこれからが始まるからだろう。
歩くための崩落

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