二重神格小狐丸

 三日月宗近は恋をした。
 そのきっかけは、まだ付喪神心がつくかつかないかといった頃に器を持たないままふわふわしていると、不思議なところに迷い込んでしまったことだ。
 三日月は知らなかったが、そこは人ですら気楽には立ち入れない領域。
 天の皇が座する場所だった。
 人の目につかない存在のため、誰にも咎められず気の向くままに進む。三日月もまだよく周囲が見えない。実存する存在は捉えられない。
 だから、最初に目に入ったのは白と金色が混ざり合い輝く、珠だった。
 おぼろげに見えたそれに惹かれて駆け寄るが急に珠は姿を消す。ふっと、視界も暗く反転してしまい、驚いた。
 しい、と耳元で囁かれる。
「畏れ多くも我が主の下まで来るとは、肝が座っておるな。どれ。姿を見せてみよ」
 視界を覆っていた、大きな手は離れていきくるりと半回転させられる。
 目の前に現れた、三日月よりも大きな青年に息を呑んだ。
 極上の絹糸を束ねてゆうるく結んだような白く長い髪に、手を伸ばして頬をすり寄せたい。真っ赤に染まった柘榴よりも濃い深紅の目は、いまは細められているが恐ろしさは無く、自分から瞳の中へ吸い込まれていきそうだった。三日月には形容しがたい白い着物と鎧を纏う姿は、初めて見るというのにどうしてだか慕わしい。匂いに覚えがあった。半分だけ、父と似た匂いがする。
 それにしても整った顔立ちをしている青年だ。酷薄と愛嬌が同居して、いまは微笑んでいても一瞬後には這いつくばる屑を見つめていそうな怜悧さがある。
 その冷たさに怯えていまだいとけない三日月が黙っていると、青年は膝をついて目線を合わせてしげしげと観察してくる。すん、と耳元の匂いを嗅がれるときには顔が赤くなった。
「おぬし……三条宗近による刀か?」
「あ、ああ。俺は三日月宗近。刀匠は三条宗近だ」
「ふむ」
 その一言で三日月を怯えさせていた冷たさが一気に溶けた。にこりと微笑まれ、三日月の脇に手を差し入れると高く持ち上げられた。
 いきなりのことに、声も出ない。ただ、いま世界が終わってしまっても後悔がないくらいに、美しいかんばせが見上げてくる。
「私は小狐丸。一条天皇に仕える、三条宗近に打たれたおぬしの兄よ」
「あに……さま」
「ああ。とはいっても、半分は稲荷の加護があるため純粋な鉄に依る刀とは違う。だが、三日月。ぬしは純粋な、それも一際美しい鉄をしているな。将来、また相見えたいものじゃ」
 言って、小狐丸は三日月を地面に下ろした。それから指をさして辿るべき道を示してくれた。
 終わると、もう何も後悔はない。そう言わんとばかりにあっさりと背を向けられた。
 三日月は叶うのならばその背に縋りついて、しがみついてまだ時間を共にしたかったが、そんなことをしたら軽蔑される気がした。
 兄は、神と鉄の合いの刀。
 だから美しく誇り高い。その横では無く、いつか隣に並び立つことができたら、言葉にしがたい昂揚が胸を満たすだろう。
 だから、三日月も背を向けた。
「あにさま」
「ん?」
 互いにすでに歩み出しながら、それでも三日月は声を張り上げる。
「また、あおう」
 俺もあにさまに劣らぬ美しく強い刀になるから。
 言わずに誓い、真っ直ぐに進む三日月は知ることが無い。
 小狐丸は振り向いて、牙を隠して弟を見守っている。その瞳には先ほどよりも幾分か濃度を増した情があった。
 初めての恋に震えている三日月宗近は気付かない。

 三日月宗近は困らせられていた。
 今世の主である審神者が、近侍を務めている一期一振を通じて驚きの一報をもたらしたのは確かに三日月の胸を震わせた。
 鍛刀して、四の数字がかけられたという。四十分では無い。四時間かかって、一振りが顕現する。
 その四時間は三日月にとって甘い地獄だった。
 待ち焦がれている兄が来るか、それとも自分が来るか。どちらにしても自分は刀剣男士としては先達だ。新しい刀の成長を見守らなくてはならない。
 三日月はいま二人用の部屋に一人でいる。内番の格好にも着換えず戦装束のまま、いつどちらと相見えてもいいように覚悟を決めながら、冷たい湯飲みに口をつけた。
 冷えた茶が喉を滑り落ちるのを味わうと同時にどちらと、なんて嘘を吐くのは止めたかった。
 三日月が会いたい刀はただ一振りしかいない。
 小狐丸。狐の加護をもって打たれた兄だ。
 初めての出会いはいまだ忘れていない。忘れられずに、心の鉄に焼き付いている。
 いま思えば実体がないとはいえ、帝が座するところに迷い込んだ自分の幼さに呆れてしまうのだが、だからこそ主の傍に控えていた小狐丸に会えた。
 まだ、刀という実体を持っていた小狐丸。いまはその本体は現存していないと話されているが、小鍛治などといった伝承により小狐丸の存在は語り継がれてきた。だから、呼ぶことが叶うのだという。
 存在の証明に必要なのは、ある。ということよりも、あった。と残ることなのかもしれない。本丸と呼ばれるいまの住処にも、本体はないが存在している刀はいくらもある。
 小狐丸。一刻も早くこの月の目にあの姿を見せてくれないだろうか。正直に言うのならば主に圧をかけて微笑みかけることによって手伝い札をかけさせたいという焦りもあるのだが、それを口にするのは浅ましくてはばかられた。
 だから、待つ。まだ日の高い空が赤く染まるまで耐え忍ぶしかできない。
 そのあいだ、三日月は何度も姿見に自分を映した。にこりと柔らかく微笑みかけたり。
「待っていたぞ、あにさま」
 反対に冷めた目線を投げるなど。
「俺を随分と待たせてくれたな」
 小狐丸が現れたら、どういった対応をすれば良いのか何度も試す。しかし結局どの態度にも納得いかなくて、三日月は柱にもたれかかった。
 いまも思い出せる白絹の髪、紅玉の瞳、笑んだ際に見える鋭い牙。瞼に映すたびに胸は高鳴り、またろくに話もしていないというのに神格だけで惚れ込んでしまった自分の軽さに、頭痛を覚えそうになった。目を閉じる。
 三日月はあとどれくらい待てば良いのだろう。
 廊下を歩く足音と人影が見えて、三日月は身を起こし、座布団の上に正座し直した。
 襖越しに影が生まれる。
「三日月殿、失礼します。鍛刀の結果がわかりました」
「ああ。入ってよし」
 一期一振の声に、緊張を悟られないように常と同じ鷹揚さで返事をしたが、想像の通り振る舞えている自信はなかった。
 襖が開く。
 一期一振のその後ろに控えている青年を目にして、三日月の世界は切り抜かれた。
 白絹の髪。紅玉の瞳。渋い色の着物は、初めて会った時の白さとは違った色だが純朴な雰囲気がある。
 その姿は幾度となく描いては全く似ないので紙を捨てた兄、その刀だった。
 なにを言えばいいだろう。なにを望まれているのだろう。
 頭はぐらぐらと白く沸騰して、正しき振る舞いなどできない。だから、体が勝手に腕を伸ばすのを制止して、笑った。
「小狐、丸」
「はい。小狐丸と申します」
 三日月は生まれた違和感を見過ごせなかった。ん、と首をかしげると、もう一度声に出した。
「小狐丸」
「はい」
 また違う。
「小狐丸」
「はい。貴方は三日月宗近殿ですね」
 四度目を繰り返す気はないらしく、小狐丸は三日月の前に出て膝をついた。
 それは、兄が初めて会った幼い弟にするのとは違う。まるで、臣下のような振る舞いだった。
 三日月の心の中にある薄い硝子に亀裂が入る。違和感が罅を入れて、だけれど認めるしかない現実がさらに硝子を割っていく。目の前にいる小狐丸は繊細な細工を踏みにじっている自覚などないまま、物腰柔らかく丁寧に言った。
「貴方は同じ刀匠である三条宗近殿に打たれた、天下五剣の一振り。僭越ですが私とは兄弟ともいえる仲。よろしくお願いしますね」
「ああ。よろしく頼む」
 わかってしまった。
 これは、俺の求めていた小狐丸ではない。
 俺の求めている小狐丸は畏まったしゃべりなどしなかった。覇気があった。天下五剣と俺が言われるようになったのを知ったら、目を細めてからかいながら笑ってくれるような、そんな。
 刀だというのに。
 三日月はがっかりはしなかった。焦がれることにより誕生した、薄く眩い硝子細工を本人によって粉々にされた衝撃によって、笑うしかできない。
 異変に気付かない小狐丸は、一期一振の指示によって、また審神者のところへ戻っていった。残されたのは滑稽な三日月と、その三日月に普段との差違を覚えた一期だけだ。
 一期はゆっくりと、三日月の名前を呼び掛ける。
「三日月殿? どうか、なさいましたか……?」
 言葉がない。三日月は、ただ長く、長く、普段は絶対に洩らすことのない疲弊の息を一期が声をかけるのも躊躇うほど長い時間、吐いていた。
 会いたい刀だ。会えたことが奇跡の刀だ。
 なのにどうしてこれほど胸が、潰れそうになるのだろう。答えは決まっている。小狐丸が違っていたためだ。
 ならば、どうして違う。
 三日月が会った小狐丸はただの幻想だというのか。
 主が呼び出した小狐丸こそ、本来の小狐丸だったのか。
 答えは分からないが、三日月はいま折れるわけにはいかなかった。たとえ他の誰もが、いまの小狐丸が本当の小狐丸であると言いきっても、三日月にしか守れない小狐丸がいる。
 あの誇り高く美しい白狐の兄を失いたくない。
 覚悟が決まった。
「三日月殿」
 また、一期に呼び掛けられる。
 今度は返事をした。
「大丈夫だ。俺は、もう大丈夫だ」
「でしたら良いのですが。小狐丸殿がどうかなさいましたか?」
「ああ。あいつはどうかしている」
 はっきりと言いきったため、一期はどちらに肩入れするか困ってしまったらしい。付き合いの長さで言えば三日月の味方だが、いきなり貶められた小狐丸を放置することもできないようだ。
 一期のその優しさに良い男だ、刀だと思うのだが三日月が惚れたのは小狐丸であって一期一振ではない。そして、優しいからこそかつての小狐丸の話ができなかった。
 一期一振は再刃された刀だ。弟の鯰尾藤四郎、三日月にとっては旧知の仲である骨喰藤四郎も記憶が抜け落ちているところがある。そんな彼らに対してかつての小狐丸といまの小狐丸が違うなど訴えても、古傷どころか生傷をえぐってしまう。
 ただ、いつかは教えを乞いたい。形がないというのに、存在があるということは一度も傷つかずに存在してきた三日月宗近には理解し得ないことだから。どうやって自己を保っているのか、それは小狐丸について知ることに繋がるだろうから。
 三日月は立ち上がった。

 三日月宗近は避けられていた。
 四日目の午後に確信を持てる程度には小狐丸に敬遠されているようだった。声をかければ挨拶はされる。だが、それだけだ。
 せっかく同室になったというのに、今朝も早々にいなくなっていた。三日月がいまだに慣れない一人の着替えでもたついているあいだに戻ってきたときは手伝ってくれたが、そのときも慇懃な笑みを隠そうともしなかった。距離を作っている。
 三日月は縁側で、内番ではなく戦装束に身を包みながら手には湯飲みを持っている。隣には臙脂色をした盆がありその上に豆皿と飴細工が置かれていた。
 顔を上向かせて見上げる先には樹が青々と葉をつけているのと、そこからこぼれ落ちる木漏れ日が見える。白い雨が降り注ぐ光景は目に眩しかった。
 だけど、一人なのがさみしい。
 唯一の欲しい相手が来ないために一人でいた時とは違う。いまはいるのに、まだいない。
 焦がれている白銀の獣がいない。その獣の尾を追いかけるように、手を伸ばすが空をかくばかりだ。
 息を一つ吐いて、湯飲みに口をつける。
 その時にとん、と軽い足音が聞こえた。白い毛並みはすっと翻る。このまま去っていくのを見逃すのも悔しいので、三日月は呼んだ。
「小狐丸」
 きびすを返そうとした足を、声のする方向に向け直して小狐丸は戻ってきた。その表情はにこにこと微笑んでいるが、柔らかさはない。かつて三日月が会った小狐丸にも柔和さなどなかったが、それとは違う。あえて畏まっている。
 兄弟であるというのに、さらに小狐丸は先に打たれて兄ともいえる存在だというのに、天下五剣などという人のつけた肩書きだけで敬われているのならば、自慢の毛並みをこの手でかき乱したいほどに憎らしい。造りだけで見るな、と蹴飛ばしたい。
「今日は内番もないのだろう。座れ」
「では」
 小狐丸も縁側に腰掛ける。こちらは内番の姿だった。
 しばらく経つが、会話はない。
 三日月の隣に座ってくる短刀は、自分から最近になって起きた出来事や面白かったことを話し始めてくれるため促す必要がなかった。脇差も分別のついている相手が多いから、月並みな話題、今日の夕食や兄弟刀との日常に触れてくれる。打刀はすでに自我が強いため、孫のように扱いにくくて相手をするのが面白い。大太刀と薙刀、槍はそれぞれ独特な感性を持っている相手が多かった。太刀は、個性が分かれる。だけれど誰であっても、三日月宗近を邪険にはしない。
 だから一番会いたかった相手だというのに、一番自分と距離を置いている小狐丸に何を話しかければ良いのかが三日月は全く分からなかった。
「ここは、どうだ」
 当たり障りのない、曖昧な話しかけになってしまったことを恥じる。かといって深く他の刀と親しくしている事情なども聞きたくなかった。
「皆、親切ですね。ぬしさまも穏やかで優しい良い方です」
 こちらも自然な応答をされたのだが、後半の言葉に胸がざわめいた。
 小狐丸はどうして主に親しくされたいのだろうか。他にも主を特別な相手のように慕う刀剣男士はいるが、小狐丸まで狐の撫で声で主へ話しかけるのは、正直。
 忌まわしかった。
 小狐丸はかつては人の頂点に立つとされる存在が所持していた刀。小狐丸がその主をどのように思っていたのかは聞ける機会もなかった。
 いまならば、どうか。
「そうか。なら、かつての主のことはどう思っていたのだ」
「そこを言われると返す言葉がありませんね」
 弱った声音。踏み込むべきではない気配がする。
 二つの間から三日月が望むことは決して語られないことだけは分かった。その不安には気付かないまま、小狐丸は淡々と語る。
「ご存知でしょうが、私の本体はおそらく現存しておりません。ですから、刀であった頃の記憶がとても、水によって薄められた酒よりもなお薄い。そのため、かつての主であった人たちよりも、いまの主を慕わしく思ってしまうのです」
 言い終えると小狐丸は初めての恋に惑う乙女のような表情を浮かべていた。三日月はその笑顔に返す言葉が浮かばない。表情も普段の笑顔のまま「そうか」としか言えなかった。
 小狐丸という刀は、小鍛治という伝承で語られて、主の手によって形を為した。
 つまりは三日月の胸に消えない焼痕をつけたあの邂逅を、この小狐丸は覚えていない。三日月のことを、弟と笑いかけた稲荷の加護による自信に溢れていた小狐丸は存在しない。
 どこにもいないのだ。
 静かに広がる波紋の衝撃に、三日月の心も揺さぶられる。いない。自分がいまだに膝を抱えて恋しがっている小狐丸は呼び出せない。
 いまも瞼の裏に鮮やかに浮かべられる、白絹の髪、紅玉の瞳、笑んだ口元からのぞいた尖った牙。気迫と誇りに満ちた気高い兄の、身をかがめはしても、決して膝をつくことのない矜持。
 それが隣にいる相手にはない。
 三日月を形作った憧れの一つは、ぱきんと音を立てて、割れた。
 手にしていた湯飲みを盆の上に置いて、三日月はもう一度小狐丸を見る。その横顔は野性を口癖にしても気遣いや穏やかさが漂っている。そして、かつて三日月が一瞬だけつかまえられた小狐丸の姿が重なるからこそ、諦められなかった。
 あのときに会った「小狐丸」にもう一度会い、成長した自分を見てもらいたい。笑いかけてもらいたいのだ。そうしたらあの兄はきっと、三日月を認めてくれる。隣に寄り添うことを許し、あの長い指で頬にかかる髪をはらってくれる。頬に手を添えてくれる。
 自分よりも上にある瞳に潤む自分の顔を映してもらいながら吐息を交わすことができたなら、どれだけの至福がこの身を襲うだろう。
 その瞬間を考えて、三日月は体を微かに震わせた。
「三日月殿?」
「ん、んん。なんでもない」
 気遣いのために、顔をのぞいてくる小狐丸の手をそっとはらった。触れられたいが、触れられたくない。三日月の繊細な心内は知らないのか、小狐丸は、大人しく従った。
「そうでしたか。失礼しました」
 また遠くを見つめる小狐丸の横顔を見つめながら、三日月は「違うのに」と呟いた。
 本当は、強引にこの顔を暴かれて抱きしめられたい。
 心は幻の影を求めて狂うばかりだ。
 梢が揺れる程度の沈黙のあとにまた足音がする。現れたのは一期一振と鶴丸国永だった。小狐丸に用件があるのか、一期が話しかける。
「小狐丸殿、ここにいらしたか。主がお呼びです」
「そうですか。では、三日月殿」
「ああ。楽しい茶だったな」
「ええ」
 にっこりと笑顔を交わし合う。けれど互いの表情は到底、穏やかに茶を楽しんでいたとは言いがたかった。実際に三日月も小狐丸が訪れてから一口も茶をつけていない。
 味わったのは苦味だけだ。
 その様子に一期は口を挟まず、鶴丸国永はただ眺めているだけだった。
 小狐丸は三日月の気配を感じた時とは反対に、軽い足取りで主の下へ歩いていく。その背を見送る月は歪みながら、冷徹だった。
 縁側の三日月の隣に一期が腰を下ろす。さらにその隣に鶴丸が座った。
「随分と機嫌が悪いな」
「そうなのか。俺はいつも通りだぞ」
「ほら、俺に当たるなよ。らしくない。どうせ原因はさっきいなくなった小狐丸なんだろう?」
 分かってるって、と肩をすくめられた。
 鶴丸へ直接に小狐丸への思いについて打ち明けた覚えはないが、一期経由で何かしら聞いているのか、察しているのだろう。だとしたらこれ以上からかわれるのは厳しかった。普段は鷹揚でいられるが、その心の余裕がいまは失われている。
「小狐丸殿と、また何かあったのですか」
 一期にまで気遣われる。
 色の違う金の瞳に、見つめられることに耐えかねた三日月は肩の力を抜いて話を始めた。
「昔のことだが、小狐丸に会ったことがある。だがそれをあやつは覚えていなかった」
 出会いの時から千年近く抱擁しているあいだに色彩を帯び始めた恋心。それを蹂躙された思いが、悔しさが言葉の端から滲んでいるようだった。
 一期も鶴丸国永もかける言葉がないようだった。いままでのんびりと、自己の調子を崩さなかった三日月宗近が明らかな感情を見せるのは初めてだ。それほど小狐丸のことを慕っていたことがうかがえる。
「だけどな、俺はそれでも。あのとき会ったあにさまを忘れるわけにはいかなくてな」
「三日月殿……」
「で、いまの小狐丸はどうなるんだ?」
 正直だが意地の悪い鶴丸の問いかけに三日月は眉根を寄せる。
「嫌いではない。ただ、違う。刀であった、あのあにさまとは違うんだ」
「一期の前でそれを言えるんだな」
 珍しいことだった。鶴丸が厳しい声で三日月を叱る。普段は三日月に懐いている鶴丸がこういった態度を見せるのも初めてのことだが、自分が口にしたことの愚かしさに気付いた三日月は目を伏せる。
 一期一振にも再刃や火災においての欠けがある。それについて考えることもあるだろうに、欠けの部分ばかりを求めていまの小狐丸を認めない三日月の態度を愉快と思えないはずだ。
 瞳の中の月がまたひずむ。
 それでも、と心が叫ぶ。
 俺の恋した狐はもっと気高く美しかったから、どうしても欲しくなってしまうんだ。欲張りな月を見て欲しいんだ。
 三日月の心中を気遣いながら、一期は落ちついて話す。
「鶴丸殿。私は、大丈夫です。気にしておりませんし、小狐丸殿とは事情が違います」
「すまぬ。不躾だった」
「いえ。私は、私ですから。たとえ失ったものがあろうとも、いまは弟たちもおりますし、それに」
 そこで言葉を切ると、鶴丸を一目見てからほんのりと頬を染めた。
「……幸せです」
「君は本当に健気だな!」
「はっはっは。普段なら惚気は聞きたいところだが、いまは外でやってくれ」
 幸せな恋人たちの関係に、ようやく気付いた。それは良いがこのために真面目なやりとりをしていたのだとしたら三日月の空しさはどこにやることが最善なのだろうか。
 一期が鶴丸をひっぺがして、頭を下げた。
「失礼しました。あの、鶴丸殿。あれを言ってもよいですか?」
「君がいいならな」
「では」
 一期は姿勢を正して、真っ直ぐに三日月を見つめながら言う。
「三日月殿、私は国永様をお慕いしています」
「知っている」
 いま散々見せられたではないか。
「はい。ですが、私には明確に恋心といえるものがありません」
 一期一振が主である審神者から聞かされた、自身の欠け。それは誰かを狂おしく恋する感情だという。
 鶴丸のことは好きだ。愛している。想いを告げられて、受け入れたいくらいに一期も慕っていた。だが、それが恋なのかと考えたら答えが出なかった。そのことを鶴丸に伝えて、断られるのも承知だった一期だが、鶴丸はその一期ごと受け容れた。
「嫌いじゃないなら、そこにつけ込んで甘えさせてもらうってな」
「ですから、小狐丸殿も何かを失って顕現しているのではないでしょうか。記憶か、それとも」
「それから先は主に聞くしかないな。行ってくる」
 三日月は立ち上がった。ふわりと、金の髪装束をなびかせて微笑む。その姿は見る者にとって溜息がこぼれるほど美しい。
「ありがとう、一期一振」
 どのいらえも返せずに、一期に三日月は見送られる。
 三日月がいなくなったあとに、憂う横顔を鶴丸は眺めていた。
「言いたくなかったみたいだな」
「はい」
 すでに答えを知らされているだろう、小狐丸が鍛刀された時に近侍を務めていた一期の背中に鶴丸は手を当てた。一期は肩に頭を預ける。

 三日月宗近はいまの主が嫌いだ。
 あまり他者に対する姿勢を好悪の情で左右することは無いのだが、いまの主に関しては好ましいとは思えない、はっきりと言うならば嫌いだった。
 主を嫌う一番の理由は小狐丸に慕われていることだ。欠けている部分を利用して暗示のように好意を持たせているのだとしたら、なおさら疎ましい。
 それらの真相を確かめに、主の部屋へ向かった。戸を叩く。本丸は基本的に和風の部屋が多いが、主の部屋は違う時代による建築手法をとられていた。
 主である審神者は苦笑を浮かべながら、誰かも確認をせずに戸を開けたが、遅かれ早かれ三日月が来ることは分かっていたようだ。
「思ったより早かったよ。あなたがここに来るということは、小狐丸さんについてだね」
「一期にあどばいすをされてな。それで、小狐丸に何をしたのだ?」
 即座には答えない。三日月が佩刀しているか、確かめてから審神者は答える。部屋の中には入れさせない。
「あなたにとって不愉快な話だよ。私の首を切らないことを保証してくれるなら話はする」
「主に手をかけるほど落ちぶれてはおらんさ。話せ」
 審神者はすう、と呼吸した。三日月の瞳に目を合わせながら、話を始める。
 それは不愉快を通り越した、おぞましい話だった。
「私の力では到底、失われた上に稲荷の加護をもって打たれた小狐丸なんて偉大なる刀そのものを呼べるはずがない。ただ、そういう例は結構あってね。刀剣男士を目覚めさせるのに、本来の刀を呼び起こせるのが一番良いことなんだけど、それができない場合は。こちらがある程度の理想を作り上げて、そこに存在を合わせることもできる。つまりは、伝承の小狐丸さんをベースにしながらも、神よりも人に慕わしくある性質へ改竄した」
 三日月は不思議と冷静だった。
 長い審神者の言い訳を聞きながら、その話の確信へ切り込む。
「改竄、とは」
「本来の小狐丸さんとは別の解釈をして、別の小狐丸として目覚めさせた。そうでもないとあんなに私たちを慕ってくれるはずがないだろう」
 びきり。
 拳を強く握りすぎた。
 だが、主の話は三日月の怒りを呼び起こさせるのには十分以上に過ぎている。
 主の話が確かならば、いまこの本丸にいる小狐丸は。主が扱うのに理想である小狐丸であって、それを呼ぶという行為が本当の小狐丸を辱めている。貶めている。
「ならば、この本丸には正しき刀の小狐丸は訪れないのだな」
「ここには、ね」
「あいわかった」
 立ち上がった三日月だが、その心中は怒りの嵐が通り過ぎていき、不思議と穏やかだ。一つの決意がすでに生まれている。
 心中しよう。
 あの、小狐丸の存在を理解するために訪れたのだが、いまわかった。偽りではないにしろ、人によって変貌させられた小狐丸の存在自体がにくらしい。最後は憎まれた瞳で見つめられるにしろ、この手で斬り終えてしまいたい。
 それに、もうこれ以上は三日月も存在していたくなかった。
 天下五剣、もっとも美しい刀。高貴なる存在。それがなんだというのだ。
 唯一欲しいものは絶対に手に入らない。すでに失われてしまっていた。それなのに自分は、喪失に気付かないまま一本だけ残された希望の糸に縋って、静かに時の流れに身を任せていた。
 それは悪くはなかった。だけど、いまは違う。
 もう、小狐丸は手に入らない。
 会えない。
「待って。三日月さん」
「黙れ。神などと敬う振りをしながら、結局は飼い慣らす方法しか考えずにいられないのが人の業だな。悪いが俺は、それらに這いつくばれるほど寛容ではない」
 このときばかりは、三日月も冷静さを欠いていた。そうでなかったら、近侍である堀川国広の闇討ちに気づけただろうから。
 国広の鋭く静かな一撃が、三日月の急所に響く。
 呻く間もなくぱたりと倒れた。
 国広は抜刀すらしないまま、腰に刀を戻しながら言う。
「主さんは本当に、立ち回るのが下手なんですね」
「だね」
 倒れている三日月は眠っているのと代わりが無い。本人が望まない眠り、という点を除けばだが。
 国広は三日月が起きない間に、移動させる。その背中を見ながら主はただただ悔やんでいた。

 三日月宗近が目を覚ます頃には夜になっていた。
 見慣れない部屋だった。格子によって囲まれて外に出ることは叶わない。広くはないが、ゆったりとした心持ちになれるほど広くもない。物のない、畳だけの部屋だ。南側に出口があるようだが鍵がかけられている。
「刀解か?」
 独り言を、一つ。主に憎悪を向けたのだから、それも適当な判断だろう。
 三日月は畳の上に寝転がる。いまは見たくのない満月に背を向けた。
 これまでの、長くもあり短くもある記憶がよみがえる。本丸での日々は存外、楽しかった。親しみある刀に忘れられたこともあれば、名前だけは知っていた刀と今日の天気や昼食、たまに過去の主について話をする。
 だけれど小狐丸がいると知ってから胸はざわめき、その姿を見てから世界は一変してしまった。
 三日月宗近の心はかき乱された。
 それをした主よりも、変質させられた小狐丸のことを考えて胸が痛む。
 重ならない影を見つめてたくさん困らせただろう。たくさん怒りを覚えた時もあっただろう。小狐丸にとってはいまの小狐丸以外に自分の存在はないわけで、それなのに三日月は小狐丸を受け容れられなかった。
 受け容れる努力もできなかった。
 三日月が恋をしたのは、千年以上も前に会った凜々しく気高い小狐丸で、拗らせすぎた想いは恋慕と言うよりも執念に近いのだろう。
 目をつむる。足音が、また聞こえる。
 さすがに寝転がっている姿までは見られたくないので起き上がると、姿を現したのは小狐丸だった。
「ご無事ですか」
 濡れた、心配の声に三日月は力無く笑う。
「なんとかな。ただ、胸が痛い」
「申し訳ありません。私のせいで」
「そうだな」
 そうではない、と否定することはできなかった。
 小狐丸のせいだから。いま、自分が苦しんでいるのは小狐丸の存在自体で、茨となって締めつけてくる。
 三日月は首を傾けて言った。
「俺も悪い。ただ、それほど会いたい刀があったんだ」
「狐の兄に?」
「ああ。狐のあにさまに」
 ひゅ、と冷たい風が一気に吹いた。格子の中にいる三日月はその風を感じながら、小狐丸の髪が舞い上がり、髪を結ぶ布が解けて流れていくのを見る。
 雲が流れ、満月が黒色の空に差し込んで、照らした。
「それは、この兄か」
 静かな声。耳に響く。
 白絹の髪は惜しげもなく風にあそばれて、普段は落ちついていた瞳もいまは射貫きそうなほどに鋭く赤い。笑みの端にのぞく尖った牙を認めて、呆然とした。
 格子越しに手を伸ばす。強くつかまれ、引きずり込まれたいのにがしんと邪魔をされた。痛みは多少覚えたが、そんなのはどうでも良かった。
 いる。
 目の前にいる。
「あにさま……?」
 三日月が恋い焦がれて身を焼いた、小狐丸が目前にいた。
 それだけで全身に震えが走り、強引に伸ばされて求められたことに歓喜の花が咲き乱れる。頬に手を添えられる感触が夢のようだった。
「どうして? どうして、ここにいるんだ」
「満月の夜は狂気に影響されてな。少しだけならば、私が沈むこの身に現れることができるようだ……美しくなったな、三日月」
 耳に囁きを落とされる。ぞくりとした。
 貴方に認められたかった。傍に並び立てる刀になりたかった。なのに、貴方がいないと知って世界は一度は崩れたというのに。
 いま、手をつかまれている。見つめられている。それだけで針で留められた蝶のように、もう動くことすら思いつかない。
「美しく、なっただろう? あにさまに相応しくなるような刀に俺はあり続けたぞ」
「よくやった」
 唇が寄せられる。抵抗も嫌悪もなく、目を閉じて迎えた。
 触れた唇は薄く素っ気ないというのに重ね合わせていることが甘美で、貪りつかれたくなる。いま自分たちを遮る薄い格子のなんと腹立たしいことか。
 唇が離れる。
 髪を梳かれる感触に三日月は泣きたくなるのだが、小狐丸は言葉を続ける。
「三日月。溶けるなど愚かなことは止めよ。いまここに私はいる。生きてくれ」
「あにさまに言われたら、考えてやらなくもない。だが、主の仕打ちは許せないんだ」
「頑固じゃからな、お主は」
 楽しそうに言われ、耳をはまれる。「あ」と高い声が上がる。人の体にはこんなところにも弱い場所があったのかと驚いた。
 格子を隔てながらも小狐丸に愛撫されながら、三日月はその心地よさに身を委ねていた。このまま、夜が明けずに触れられてもらえたら良いのに。願ってしまうほどだ。
 だが、愛撫の手が止むと、小狐丸は三日月の手を満月に伸ばさせる。
 そうして問いかけた。
「あの月に、触れられるか」
「それは難しいな」
「だが水に映る月には触れられるだろう。あの月の熱はどれほどだ」
 少し考えて、答える。
「水に映る月は冷えている」
「その水に映る月と空に浮かぶ月の熱が同じとは誰も思わぬが、違うとも誰一人言い切れぬ。人の身である限り、空にある月には触れられぬからな。私のこともその月と同じだと思え。おぬしの月に映るあの私と、いまの私は違ってはいるが同じもの。おぬしを愛していることには変わらぬ。だから」
 生きよ。
 そう言われてしまえば、三日月は逆らうなどできはしない。
「あにさまはひどいな。だが……考えてみよう」
 小狐丸が言うのだ。
 三日月が拒んできた小狐丸も、いまの小狐丸と同じかもしれないと。ふと思い立って尋ねてしまう。
「なら、あにさまにもあんなに慇懃無礼な時期があったのか?」
「さてな。行儀の良い狐ゆえ、覚えておらぬ。おぬしだって、猫をかぶるのが上手いではないか。何度、笑わせてもらったことか」
「ひどいな」
 喉の奥で笑う小狐丸の手に頬をすり寄せる。
 この時間が永遠に続けばよいというのに、そんなことがないのは分かっていた。また、雲が流れて月が陰る。
「そろそろじゃな。三日月。愛しておる」
「俺もだ。また、会おう。あにさま」
 その言葉が別れだった。
 次に小狐丸が顔を上げたときには、少しばかり情けない、ぼんやりとした表情で三日月を見ていた。
 名前を呼ばれるよりも先に呼ぶ。
「小狐丸」
「ん……あれ、私は何を……?」
 状況が分からずに戸惑っているようだったが、容赦はしない。
 狐のあにさまは言ったのだ。
「そなたは、俺のことが好きか?」
 静かな問いだったが、小狐丸の顔は花が咲いたように赤くなる。これまでの慇懃さも、先ほどの余裕もない。
 初心な男だった。
 小狐丸は顔を真正面に向けたまま、口の開閉を何度も繰り返していた。やがて覚悟を決めたのか、月の瞳を見つめながら言う。
「一目、見たときからお慕いしておりました。ですが。どうすればよいのかが分からず。三日月殿は私を苦手でいるようでしたし」
 だから小狐丸も距離を作る態度を取るしかなかったという。
 いまさら大きな身を丸めて、恥ずかしがる小狐丸に、三日月は始めて手を伸ばす。なんだか愉快な気分になっていた。
 怯える真紅に目を合わせて、微笑みかける。
「そこまで言うのならば俺を落としてみせよ。手強いぞ?」
 千年以上ものあいだ、恋慕を募らせていくほど一途なのだ。この狐も可愛いが、簡単に恋になど落ちてやれるはずもない。
 それなのに小狐丸は真剣な顔をして頷いた。
 三日月は笑う。ささやかな声で、くすくすと。

 三日月宗近は謝られた。
「申し訳ありません」
「もういい。俺も浅慮が過ぎた」
 反省用の部屋から出され、自室に戻った三日月のところへ珍しく審神者が来たと思えば、深々と頭を下げられた。
 正直なところどうでもよかった。
 小狐丸があの夜に別の面を見せた、という話もする気がしない。自分だけに起きた特別な出来事だと胸に秘めていれば十分だ。主へ知らせる必要も義務もないだろう。
 それよりも。
「堀川。聞きたいことがある」
「はい?」
 いま近侍を務めている、現存はしない刀。だけれどかつて新撰組副長の刀として語り継がれてきたために、相棒である和泉守兼定が存在するために、呼ばれたとされる刀。
「たとえ姿を失ったとしても。思いは消えないものか?」
 三日月の問いは曖昧だったが、堀川はすぐに意味を察する。にっこりと笑って頷いた。
「はい。たとえこの身が朽ち果てていようとも、僕は和泉守兼定の助手ですよ。誰にも、否定させたりなんてしません」
「なるほどな。うらやましいものだ」
 いまだ頭を下げ続ける審神者が面倒になったため、三日月は部屋の外に出る。
 見上げた空には太陽が一つ輝いていた。それを見つめながら、昨日の小狐丸の話を思い出す。
 月の熱。
 それに触れられる瞬間は決してないのだから、水面に映る月と瞳に映る月が違うと断言することは、誰にもできない。
 狐のあにさまもまだ、どこかにいるのかもしれない。 
「三日月殿?」
 ふと小狐丸が寄ってくる。自慢の毛並みが陽光に照らされて、眩しい。それはかつて三日月が見つけた珠の光と同じではないが、似ているものだった。
「ふむ。これもこれで、悪くはないのだろうな」
 三日月の呟きの意味が分からず、小狐丸は首をかしげる。
「気にするな。独り言だ」
 いまは三日月も、自分を慕っている小狐丸を厭うつもりはなかった。これもまた、小狐丸なのだろうと、ゆっくりとだが受け容れられ始めている。他の刀には、奪われたくないと思うくらいに。
 三日月は目を閉じた。
 それでも俺が一番触れたいと願うのは、触れられたいと思うのは、気まぐれに姿を見せる狐のあにさまだから。
 月の真実はいまだ秘密にしておこう。




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