つめきり

 小狐丸が歩くのは、まだ日が昇っている午後五時の本丸の廊下だ。すでに遠征から帰還した刀たちは戦装束を片手に内番姿のまま仲良く談笑している。微笑ましく眺めている小狐丸の進行方向を塞いでいることに気づくと慌ててよけた。
 今日の小狐丸の格好は軽装の浴衣だ。なぜか。着るのも着替えるのも楽でいいがこの衣装を命じられることはあまりないので戸惑ってしまった。それでも主に言われれば是非はないとたくましい足の甲をさらしながら近侍を務めていた。
 部屋に戻る。足を見ると、爪が普段よりも伸びていた。戦の時に邪魔にならないようにこまめに切るようにしているが、最近は大阪城や里への連続出陣などで忙しく、つい忘れていたようだ。定位置にある爪切りを取ると、畳に腰を下ろして前屈みになり、硬い爪に爪切りを当てる。挟んで閉じればぱちん、と音がして爪切りの中へ白いたんぱく質が吸い込まれた。
 左の親指から下がっていって小指を三回、右と左と上と形を整える。さらにやすりをかけて尖りを取ればまるまった綺麗な爪が姿を見せた。満足する。次は右の足だと、ぱちん、ぱちん、音を立てて切っていく。残るのは薬指と小指だけになったあたりだ。うっすらと視界に陰が差す。双葉の影がぴょこんと跳ねているのを見たら、誰が戻ってきたのかはすぐにわかった。
 もう二度、ぱちんと切り終える。同時に、後ろからふわりと首筋を覆われる。普段は隠れている篭手と細くて白くてつつきたくなる、一の腕が見えた。小狐丸の髪に顔を埋めて深く呼吸しているのは。
「お帰りなさい。三日月」
「ただいま」
 くぐもった声で返事をされるが、小狐丸の髪に顔をうずめているのだから仕方ない。頭にかかる生暖かい鼻息に苦笑しながら、好きにさせた。
 三日月はしばらく小狐丸の自慢の毛艶を堪能すると、名残惜しそうに離れながら、足を見た。
「お前の足は大きいなあ」
「三日月が華奢なのですよ」
「そうだろうか。普通だぞ」
 ぺたりと正座をする三日月に、微笑みかけて小狐丸は切ったばかりの爪の残骸を小箱に落とした。ざらざらと落ちていく。
「伸びるのが早くて困ります」
 極になってから、特にそうだ。
 真剣必殺の時に獣の性が出るためか、以前よりも爪や毛が伸びるのが早くなった気がする。もふっとした髪は言うことを聞かせるのに苦労するし、爪もこまめに確かめなくてはいけない。ちょっとした悩みだ。
 本当の獣であっても爪とぎは必要なのだから、人の身だと一層だ。特に傍らで眺めている愛しい刀を傷つけないためには。あの肌に、白いきめ細やかな肌に血が流れる様子は美しいが、自分の手で為したくはない。
「そうなのか」
「ええ。野性が増したのでしょう。いつか、貴方もはくんと食べてしまいますね」
 冗談めかして言えばからからと笑われた。
「いつもそうしているくせに。まあ、本気でするのなら、骨の一つも残さず綺麗に食べてくれ。お主の腹の中は温かそうだ」
「……悪趣味な」
「先に言ったのはお主だろう」
 何を、ときょとんとする三日月の着替えを手伝う。
 三日月も修行に行けば極になれるというのに、なんとなくふらふらしているため、いまだ青い狩衣姿だ。演練で他の本丸の極に至った三日月宗近の豪勢さも印象深かったが、まだ欠落が多いとされる姿も好ましかった。頼りなさが可愛らしい。小狐丸がいないと地に足がつかないような。ずっとそうでいて、欲しい気にもなるため刀だってわがままだ。
 小狐丸はいたるところの飾りを外して畳に落としたところで、三日月の手を取った。
「貴方の爪も伸びていますね。切りましょうか」
「いや。自分でやれる」
「世話をされるのは好きなのでしょう? 私は世話をしたいのです。……駄目ですか?」
 甘く掠れた声。懇願すれば、目をそらされて溜息を一つ吐かれた。
「狐め。こんなときばかり甘えるのはずるいぞ」
「ありがとうございます」
 ほだされてくれて。
 小狐丸は愛らしい笑みを浮かべながら、いまだほとんど着替えられていない三日月を座らせて、背後からいそいそと抱え込んだ。そのまま三日月の手を取る。青年としてはしっかりとしているだろうが、小狐丸よりも皮が薄くて小さな手をそっと包み込むとなんとも言いがたい幸福感に襲われる。
 かわいいかわいい三日月。
 このまま覆い隠してしまいたくなる。
 それは相手も同じなのだから、互いに落ちているのは透明な夜の泉だ。浅いが、だからこそ足がはまって抜け出せない。
 小狐丸は爪切りを手にして、三日月の指に刃物を当てた。ぱちん、ぱちん。切れの良い音が響く。深くはならないように気をつけながら、左手で手首を支えて右手で断絶させる。三日月だったものが離れていく。
 最初にあった淡いときめきは薄れていき、いまは傷つけないように右に、左に細かく角度を調整しながら、たまにやすりがけをして荒れをなだめさせていく。一種の儀式のようだ。
 視線を下にやったときに、三日月の首筋が赤くなっていた。口元は勝手に弧を描く。小さな耳に唇を寄せた。
「貴方の爪は珊瑚のようですね。美しく、脆くて愛らしい形をしています」
「そ、うか。照れるな」
「ええ。柔らかいので、本当は長くとも私は困りませんけれどね」
 暗に夜のことを匂わせた。二人きりの秘密に触れた意味を三日月はわかっているのか、今度は耳まで赤くなる。
 実際に立てられる爪の甘い痛みが小狐丸は好きだった。快楽に耐えきれずに痛みを逃がす、あの瞬間の目をとろかせて口元から唾液をこぼす、はしたない顔。三日月が求めるものは自分だけになる。思い出しただけで、胸がとくとく先走った。
 三日月は愛らしい。美しいと例える方が適切であるとしても、いつまでたっても鷹揚な態度の裏に恥じらいやいとけなさを残す、甘ったれな部分が好きだった。それは自分だけが見つめることを許されている本質だとしたら、多くの飾りを剝いて、それこそはくんと食べてしまいたくなる。
 腕の中で居心地悪そうに、だけれどこれ以上の居場所はないと知って身を預けてくる。三日月をさらに力を込めて抱擁する。淡い三十六度の温もりにうっとりとしてしまう。
「痛い、思いはさせたくないんだ」
「優しい刀ですね。それでも、貴方のくれるものなら私は痛みすら愛おしいんですよ。知っていましたか?」
 首筋の産毛に唇をくすぐられながら、ちゅっと触れた。びくん。三日月は派手に跳ねる。電気を流された魚のようだ。
「では次は足の爪を」
 白い足袋を、あえて時間をかけながらゆっくりと脱がせていき、白い足をさらさせる。はくはくと呼吸する三日月の胸に手を当てて、早い鼓動を感じられることに舌なめずり。小狐丸はそれでも余裕を失わず、三日月の足の先の無防備に爪切りを合わせて切っていった。ぱちん、と音が立つたびに震えられる。
 決して傷つけることはしないのに。
 つま先が丸まったところで、終わりにした。
「綺麗になりましたね」
「なんか、妙に疲れたぞ。お主が変なことをするから」
「こんなことですか」
 露出された耳殻の上にかじりと歯を立てた。本気を出せば噛みちぎれそうな軟骨の感触は硬い部分に心地が良い。
「あん」
「ふふ、はしたない。私の腕の中の三日月は本当に、はしたなくて可愛らしい」
「怒るぞ」
 そう言いながらも、笑っている瞳は全く怖くなかった。
 なんだかんだ言いながらも三日月だって楽しんでいたのだ。小狐丸との淡い触れあいを。もたげそうになる頭を押さえ込みながら、三日月の額に唇を当て高い音を立てる。
 疲れたというのは本当なのか三日月は小狐丸という揺り籠から出て行こうとしないで、あちらにふらり、こちらにふらりと揺れている。
 小狐丸は好きにさせた。



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